いやいや、「はちのへ」でございます。
八という数字、縁起の良い数字ですが、なぜ八なのか気になりませんか。八の戸・・・、八番目の戸。
青森県や岩手県に詳しい人はすでに知っていると思いますが、一から九の数字に「戸(へ)」がつく地名があります。ですから一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)です。八戸もそのうちの一つです。
八戸市の概要を調べていたら、たまたま「戸」について書かれてあるページを見つけました。引用もとのリンクは最後に掲載します。
「戸」がつく地域は「糠部郡(ぬかのぶぐん)」と呼ばれていたそうです。これは知りませんでした。
で、地図上で一から九を順に調べていくと、「四戸(しのへ)」の地名が見当たらないことに気がつきます。インターネットで調べた限りでは確かな情報を得ることができませんでした。昔は存在していたらしいといった感じ。
しかし、人名として四戸は存在します。
では、十から先はないのか?私が思いつくのは十和田(とわだ)しかありません。「戸」がつきませんが。十の次は百?百石(ももいし)・・・「戸」の話じゃなくなってきた。
数字がつく地名はたくさんあるもので、色々調べてみると、何かしら共通点・関連があったりするかもしれません。「戸」のように。
参考リンク掲載します。
四戸は今の櫛引のあたりだといわれてますね。櫛引八幡宮が昔は四戸八幡宮と呼ばれていたことから、かなり信憑性の高い情報みたいです。
返信削除そのあたりに四戸を置くと、一戸から七戸まで北上し、八戸、九戸と降りてきてぐるっと一周しますよね。
四門九戸制についてはwikipediaの『糠部郡』に詳しいです。よかったら読んでみてくださいね。
かつて奥六郡の北には郡は置かれなかったが、延久蝦夷合戦の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡、津軽山辺郡、津軽鼻和郡、外浜、西浜が建郡された。建郡の時期は文献がないため不明だが、清原真衡の時代という説と藤原清衡の時代(奥州藤原氏)という説がある[1]。
返信削除糠部郡には、「四門九戸(しもんくのへ)」の制がしかれていた。四門九戸の制とは、糠部郡を東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」(あるいは部)に分けるものであった。現在でも、四戸を除き、地名として現存している。一説には、南部氏の領地になった順番とも言われるが、四門九戸の制がしかれた時期が鎌倉期以前ともいわれているので、必ずしも事実とは言えない。北門は、現在の上北郡、下北郡にその名を留めている。戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある[1]。
寛永11年(1634年)、糠部郡は北郡・三戸郡・二戸郡・九戸郡に分割された。
ってかいてました!私は馬の牧場を、数える単位だったって何かで読んだ気がします・・・(*^。^*)
Wikipediaの引用ですね。
返信削除ほか、面白そうな情報がありましたらぜひ教えてくださ~い。
ちなみに、四戸くんと友達です(^o^)v